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2010年4月

新聞の取材!

先週の木曜日に、新聞社の取材を受けました。
お世話になっている知り合いのご紹介です。

北関東の1都市の経済新聞社ですが、紙面見た限り
非常に面白い!
あまり地方都市の経済新聞を見る機会は少ないと思いますが、
機会があったら、ぜひ読んでみて下さい。
地方の時代が来ている事をヒシヒシと感じるハズです。
よっぽど社会が見えます。

http://www.gunkei.com/

大手の新聞社は、大局は見るが、ディティールは報道しません。
または、非常に少ない。
でもこの世の中、大局の情報を頼りにする人はほとんど居ないと思う。
「大局を考える」為の訓練にはいいと思うけど、
ほとんどの人は必要ないでしょう。

よりよく生きる為のヒントや知恵は、近くに有るべきで、
そうでなければ意味が無い。

ネットでは人に近すぎる為に、その情報を見極める技が必要で、
これが無いと風評に流されてしまう。

程よい近さで、情報もある程度オーソライズされている媒体…。
答えは、地方新聞かもしれない。
そういう意味では地方の新聞は購読者を増やすチャンスかも知れないな…。

中央の新聞は、スポンサードが強くて偏った報道ばかりで、
「こう思わせてやれ!」的な部分が見え隠れ、ではなく、
あからさまに見えてしまって、これで見えないように隠しているつもりだろうか…。
読者をバカにしてるとしか思えない…。
これじゃ誰もが新聞離れするでしょ。自浄作用も無いようだし。
知り合いはスーパーのチラシ情報が欲しいだけで契約してるって。
おやおや…。

おっと、修正。
で、取材はうまくいったと思います。
「残り文」の必要性と社会性、「相伝屋」の役割など理解して頂けたかと
思います。
記者の方も「今の社会では自分の子供を育てたくない」という問題視は持っていて、
その為に子供をつくる時期が遅くなったと言っていました。

やはり、何かのアクションは必要なんです。
将来のために…。
こんな愛の無い社会に子供たちを残して行く訳にいかないよね…。
少しでもなんとかしよう。


P1000660

残り文の目的について-1

「残り文」の利点について、思う所を書いておこうと思います。
まあ、ばらばらと書くのでまとまらないかなとも思いますが…。

今日思った事…。
この社会は、愛が足りない!んです、互いに。
互いにって言っても、他人同士いきなりはちょっと無理かなとも思う。
一時期映画の影響で「ペイフォワード」が話題になったけど、いいね!で終わっちゃった。何かの行動上のきっかけが必要で、それがあって、尚かつ「残るもの」と考えると「残り文」しかないんです。

心がどんどん痩せて行く…と思いませんか?心の余裕が無くなる事で、日本人としてのアイデンティティまでもが薄くなり、人の作ってきた文化も無くなりつつ有る事に気がついた…。

悲しいニュースが多くて困ります。どこかの国ではテレビ等で流す悲しいニュースの割合を決めた国があったと思います。あまりにも国民の心に作用する力が強かったのでしょう…。ネガティブパワーは強いから。

親や、自分の子供を殺めてしまう、そこまでは行かないにしても親としての責任はどこに行ったのだろうと考えてしまうような…等々。
そんなニュースを見るたびに「何が原因でこうなってしまうのだろう?」と考えてしまう。
戦後経済の急成長の代わりに、何か大切なものを捨ててきてしまったのでしょうかね?
こんな愛の無い、寒々しい世の中にどんどん変わって行き、こんな世の中で子供たちを育て、このような世の中が将来に伝わってしまうのは耐えられない。
 原因を考えると、もしかしたら肉親に「愛された事が無い」または「その心が伝わっていない」のが原因の大きな部分かなと思ったんです。

愛する心は誰にでもあって、愛されていると感じれば心が豊かになり、自分に自信が持て、他人も愛せるようになるでしょう。
ではそれを、時間を超えてどう残す・どう伝えるのか?その答えが「家業」としての「残り文」なんです。

愛されていた証拠を残したい。

今までこのようなシステムは有りませんでした。必要なかったのでしょう。

「愛していた証拠」を残す事「自分は愛されていたんだ」という事が書面で届いた時、愛は伝わり、心に暖かい物が生まれ、それが行動の自信、生きる自信になると思う。

不慮の事故が起きた場合、現在は保険が充実しているためお金の部分はかなりフォローされていますが、「心」へのフォローは全くと言っていいほど無いし。

言葉を残す事は、自身の為にも、家族の為にも大きな心の支えになるし、子供にとって成長に大切な「心の支え・愛」が伝わる事は、子供の心が豊かになる。
「残り文」を預ける事で、書いた自分も心が暖かくなるし、客観的に今の自分を見る事なんて日常生活では無い事だから、自己啓発のセミナーなんかで利用してもらったらな?なんても思ってます。

愛する気持ち・想いを伝える事で、人と人との心が繋がり、愛が広がり、寒々しい世の中が少しは暖まって欲しいです。
互いの心が豊かになって、結果社会に少しでも愛が戻る事が出来ればいいけど、賛同者を広めないと意味がないです…。

P1000607

お花見の、お重に映った桜です。
今年は桜の花が咲いている時期が長かった…。P1000616_2

昨日の続き…。

前回の続きです。

今の時代は、人と人の繋がりや、人と自然の繋がり(人と、目に見えない何かとの繋がり)がどんどん断ち切られてしまっている時代かなと思う。

僕らが子供の頃(昭和40〜50年代)はまだまだ人と人との繋がりや、人と自然との繋がりがたくさんあった。

それは、先祖を、先代の想いを大切にし繋げてきた事が感じられた行事や行動が感じられたから。

人対人としては、親から子供へ、子供が親になった時、その子供へ伝える想いや家訓、物。

人対自然としては、季節の行事・近所の行事、神社仏閣のエピソード等。
八百万の神々が居た日本の自然が、心から、自然から無くなっていっています。
盆踊りや、お祭り、お墓参りとか、周りから無くなっていませんか?

自分の周りに、まだまだ面倒なほど残っているなら、幸せかも。

それが無くなってしまったら、
自分が子供の頃ワクワクしながら歩いたお祭りの夜店とか、提灯の下の盆踊りとかに行けなくなって、自分の子供に感じたワクワクが、自分の子供には無くなってしまうのは、どうも寂しい。
夏の神社の、木陰の涼しさとかね。
心の「豊かさ」がどんどん消えていってる気がする。

そんな地域の文化も無い、薄っぺらな社会は嫌だ。

目に見えない「何か」が、心を豊かにしてくれていると思えてしかたがない。
心が「根無し草」のようにふらふらしちゃう。

今、残す優しさと勇気が必要かな?

それを感じたことのある人しか、残す事は出来ないから急務だよね。

ちょっと脱線。

人対人に戻ろう。

心の中にある想いを、ちゃんと伝えていますか?
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん。
愛する人、自分の子供。
想っているだけでは伝わらないのは分かっている。
でも、どのタイミングで伝えるかが難しい。

行動で表しても、それが伝わっているかどうか…。

「好きだよ」とか「愛してるよ」とか「感謝してるよ」とか普段は言えないよね。

それに、

子供たちを呼び出して、
「お前たち!自分はこう生きてきたから、こう生きたらいいぞ!」なんて事を言ったら
思いっきり引くか、様子がおかしいと思われるのが関の山。
っていうか、それが普通の反応。

これもいつ伝えたらいいか難しい…。

酒でも飲んで「がははっ!」と笑いながら子供を抱きしめながら言うのなら、
オヤジ酒飲んで変な事言ってる!程度で、記憶には残ると思うけど…。

本当は伝えたい…残したい…君たちの将来の為、僕が君達に想っている想い・感謝を…。

気持ちを伝える時、自分が精神的にナチュラルならいいけど、この社会じゃそうはいかない。イライラしたり、落ち込んだり…。
そんな時には、愛の言葉や感謝の言葉は出にくくなる。

本当はそんな時こそ必要なんだけど…。
流されて、自分を客観的に見られない事が多い。

本当は伝えたい…残したい…君たちの将来の為、僕が君に想っている想い・感謝を…。
そんな時、自分を客観的に見ながら感謝の言葉や愛の言葉をまとめておく場所、
そんな場所が必要だと思った。
それが「残り文」なんです。

今実際ウェブ上にあります。
ココです。
http://www.nokoribumi.net/

心に愛があると、どれだけ強く、自信になるか。
「愛されている」と知る事が、どれだけ心の安定につながるか。
「自分らしさ」が出せるし、心の自信になる。

何かの機会に「あっ!」と思ったら、使ってみて下さい!

残すと言っても、そんな何十年も先は僕だけでは伝えきれないから「家業」として
「相伝屋」を始めました。一家相伝で代々言葉や物を伝える家業です。
幸いに子供は3人居ますので直系なら4代目まで保証。

地域の文化保存に関しては、編集・グラフィック・オーサリングの経験を生かし残す手伝いをします。

写真は週末に足利公園に行った際撮ったものです。
下の山桜は、一番好きな花の一つです。
P1000598
P1000604


僕について…

僕がいままでやってきた仕事を端的に言うと「伝える」という事をしてきました。

デザイナー時代もディレクター時代も 何かを、誰かに「伝える」お手伝いをしてきたのですが、
”クライアントからユーザー”パターンと”クライアントから制作会社からユーザー”という流れがほとんど。

それは、基本「売り上げ」に関するお手伝いで「企業とユーザーを繋げる」という事で、
「企業」という誰だか分からない対象(会社)と、ユーザー(個人)を繋げてきた。

その繋げる事に、限界を感じていた事が今になって如実に現れた感がある。
その無理が、今の世の中に沢山現れている感がある。

企業の発信した物が、誰に向けてかが、はっきりしない弊害。
自分なのか、それとも誰?
自分に向けられたとは思えない表現に、それが心に滲みない。
心に滲みなければ、人は動かないでしょうし
買わない。
心に滲みないのなら、それはただの文字と写真の集合。
そんな中で残るのは、機能やおいしさなどの根本的な感覚だけ。

結果、雑誌を代表するマスメディアの崩壊が始まっている。
(もちろん原因はこれだけじゃない…)

突き詰めて行けば行くほど「会社」対「個人」の溝が埋まらないな、と思う。
だから人対人の「口コミ」が一時期注目されたけど、
それも商業的に利用されすぎの感が見え隠れ。
の、スパイラル…。

この仕事に「飽きた」と言われればそうなのかも。

基本的には「伝える・繋げる」の手伝いは好きなんですよ。
でも、対象が違うんです。

だから、今度は「人」と「人」を繋げる事をしようと思った。
それも、時代を超え、心を繋げる事をしようと。

P1000592

近所の小学校の校庭にコブシの花びらが散乱していました…。
松任谷由実(荒井由実)の「花紀行」を思い出す…。
年代が分かるね。

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